資本論第1部 第22章 剰余価値の資本への転化 第1節の解説

資本論第1部 資本の生産過程

第7篇 資本の蓄積過程

第22章 剰余価値の資本への転化

第1節 拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転

 

 

 

今回は第1節の解説です。

 

剰余価値の資本としての充用、つまり剰余価値の資本への再転化を”蓄積”と呼ぶ。


蓄積のための条件としては、それを可能にする剰余生産物が社会的に追加生産手段と追加生活手段として存在することである。


更に、追加的労働力(可変資本)と追加的生産手段(不変資本)が合体されることで、剰余価値の資本への転化が完了する。


第22章の第1節は難解だと思う。

 

読解の鍵となるキーワードはテキストに何度も出てくる”私有法則の内的な不可避的な弁証法”である。

 

これは端的に言えば、資本制的生産様式の”形式”と”内容”の乖離のことを指している。


形式とは平たく言えば、外観、外見のことである。


資本制的生産様式は、外見と内容が違うとマルクスは言う。


これは喩えるなら、清涼飲料水でラベルには健康に良いと書いてあるが、実際の中身の液体は、体に悪いものが入っている清涼飲料水をイメージして頂きたい。


形式(外観)を見ると、そこではフェア、つまり公平な等価交換に基づく労働力の不断の売買が行われている。

 

しかし、形式ではなく内容の方をみると、そこにはアンフェア、不公平な光景が広がる。

 

何がアンフェアな内容かと言えば、資本家が、絶えず等価なしで取得する他人の労働の一部を、それよりも多量の生きている他人の労働と取り換えているからだ。

 

つまり、資本家は不払い労働を搾取し続け、獲得した剰余価値を再投資し、資本を増やし続けているのである。

 

 

さらにマルクス


所有権、私有の法則は、所有と労働の分離に行き着くと主張する。

 

所有権は、資本家サイドでは、他人の不払い労働またはその生産物を取得する権利として現れる。

 

労働者サイドでは、彼自身の生産物を取得することの不可能性として現れる。

 


この内的な不可避的弁証法(形式と内容の乖離)は、


労働力が労働者自身によって商品として自由に売られるようになれば、不可避的になる。


資本制的生産様式とは、商品経済(あらゆるもの商品によって媒介されており、貨幣を使って商品を買うことにより社会活動が媒介される)が優位の経済システムである。


商品生産が全社会に普及するのは、賃労働がその基礎におかれた時である。


それと同時に、商品生産の所有法則が資本主義的取得法則に転化する。


つまり、賃金労働者は自ら生産手段を持っていないので、商品を買うことによりはじめて自分の生活を維持していける。


商品を買うための貨幣は、自らの労働力を売った対価として受け取る。


労働力を商品化する人が多数派になると、商品経済が優位になり、所有法則が社会の隅々まで貫徹し、資本制的生産様式が出現する。


どの生産物もはじめから販売のために生産されるようになり、いっさいの生産された富が流通を通るようになる。


要するに、サラリーマン的なライフコースの一般化すると、商品経済が支配的な形態になるのだ。

 

 

 

資本論の全体像】
第1部 資本の生産過程
第2部 資本の流通過程
第3部 資本主義的生産の総過程 1、2巻の理論がどう現実の中で顕在化するか、および利潤の分配についての考察