資本論第1部 第5篇 第14章 絶対的および相対的剰余価値の解説

 

資本論第1部 資本の生産過程
第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産
第14章 絶対的および相対的剰余価値

 

 

資本論 (3) (国民文庫 (25))

資本論 (3) (国民文庫 (25))

 

 

 

 

 

以下、第14章の解説です。


まずは、生産的労働の労働の概念について解説する。


もともと生産的労働の概念は5章でも論じられた。

 

それは端的に言えば、

 

 

人間が自然に働きかけて生産物を作り出すこと(5章)。


一方では、生産的労働の概念が拡張する。


つまり、協業が発展することにより、生産的労働


たりえるためには全体労働の部分であるだけで十分となる。

 

他方では、生産的労働の概念が狭くなる。

 

“生産的”=剰余価値の生産に寄与する労働のみとなる。


資本家のための剰余価値を生産する労働、


すなわち資本の自己増殖に役立つ労働のみが


生産的労働となる。

 

 

次に、この章の難所である、


形式的従属と実質的従属について説明する。


両者には歴史的な違いがある。

 


実質的従属は、主に歴史が機械大工場まで進んでいる状態を指すと考えられる。

 

絶対的剰余価値を生産においては、


形式的な従属で十分である。

 

労働者が自分の労働力の価値の等価を超えて労働日が延長されれば良いのだから、

 

形式的従属、つまり自然発生的な資本のもとへの労働の従属でも十分である。

 

 

それに対して、

 

相対的剰余価値の生産は、生産性の向上を伴い、


労働の技術的過程と社会的編成とが徹底的に改善・変革される。

 

これにより、資本への形式的従属よりも進んだ

 

資本への実質的従属、つまり”独自な資本主義的生産様式”が生まれる。

 


労働手段への労働者の従属、主体(労働者)と客体(労働手段、つまり機械)の転倒

 


いわゆる主客転倒は、効率的生産の追求、つまるところ相対的剰余価値の生産


を通じて生じてくる。

 

 

結果的に、労働者の資本への実質的従属が起きるのである。

 

形式的従属=手工業、マニュファクチャのステージ。

 

実質的従属=機械大工場のステージ。

 

と考えるとわかりやすい。

 

ここまで明瞭に二分割できるかは、

 

なんとも言えないが、

 

理解のために、あえて単純化して考えると

 

この二分割は有効と思われる。

 

 


次に、絶対剰余価値と相対的剰余価値の区分について説明する。


ある面では、


相対的剰余価値も絶対的と言える。

 

なぜなら、


労働者自身の生存を必要な労働時間を超えての労働日の




 

絶対的延長を条件としているのだから。

 

他方で、


絶対的剰余価値も相対的とも言える。


なぜなら、必要労働時間を労働日の一部に制限することを可能にするだけの

 

労働の生産性の発展を条件にしているのだから。

 

 

 

では、両者を区別するにはどこに注目したら良いのか?


与えられた労働の生産性と強度のもとでは、

 

剰余価値の増大は、労働日の延長に寄らざるえない。


この場合は絶対的剰余価値

 


反対に、与えられた労働日のもとでは、

 

剰余価値の増大は、

 

労働の生産性または強度の変動によるほかはない。


この場合は相対的剰余価値と範疇と言える。

 


次に、剰余価値の自然的基礎に関するマルクスの記述について解説する。


このあたりから14章は読みやすくなる。


もし労働者自身が彼自身の生存に必要な生活手段を生産するのに


彼の時間の全てを必要とするなら、剰余価値は発生しえない。

 

その場合はしたがって、資本家もなく、


奴隷所有者も封建貴族も、どんな大有産階級もない。


労働時間を搾取しようがないのである。

 

 

 

人間が原初の動物状態から抜け出して、


彼らの労働そのものもすでにある程度まで社会化されているとき、


はじめて、ある人の剰余労働が他の人の生存条件になるような諸関係が現れる。

 


資本関係の成立は、さらに長い発展過程を待たなければならない。

 


また、

 

労働の生産性、および剰余労働は自然的条件に影響される。

 

まず、自然条件が生活手段へのアクセスに影響を与える点について考察しよう。


生活手段へのアクセスとは、つまるところ、土地の豊度などの自然の富の豊かさである。

 

資本主義的生産の元では、他の事情が不変で労働日の長さが与えられていれば、


剰余労働の大きさは、土地の豊度に依存するだろう。


つまり、土地が豊かであれば、豊かであるほど、


自分自身および家族を再生産するために必要な価値量である


必要労働を下げることができ、その分、剰余労働が増える。

 

 

 

他方で、自然条件は、生活手段のみではなく、労働手段へのアクセスへも影響する。

 

この点で言えば、


最も豊穣な土地が資本主義的生産に最も適した土地だとは限らない。

 

豊かな土地は剰余価値生産の可能性を与えているだけである。

 


資本主義的生産様式は人間による自然の支配を前提するが、


自然が豊かすぎることが技術の進歩の上では最適とは言えない。

 


有り余る自然に、人間が自然に頼ってしまう可能性もあるからだ。

 

この意味で、地理的な区分で言えば、熱帯ではなく温帯こそ資本の母国と言える。

 

また、土地の分化、土地の天然産物の多様性こそ、


社会的分業の自然的基礎をなすと言える。

 


また、人間は仮に暇な時間があっても、剰余価値を作り出すために働くとは限らない。

 

その時間で自分のために生産的労働をするには、色々な歴史的事情が必要であり、


他人のために剰余労働をするには外的な強制が必要となる。


この外的な強制については、資本論第1部の終盤で論じられることとなる。

 


最後に、マルクスは、リカードやミルなど経済学者批判を展開する。

 

批判の骨子は、


これら俗流経済学者が、


剰余価値の源泉(=労働時間の搾取)については、無知である点に向けられている。

 

 

 

資本論 (3) (国民文庫 (25))

資本論 (3) (国民文庫 (25))

 

 

 

資本論の全体像】

第1部 資本の生産過程

第2部 資本の流通過程

第3部 資本主義的生産の総過程 1、2巻の理論がどう現実の中で顕在化するかを記述。