『中国の論理』岡本隆司 ⑴

 

国史の分野で

 

定評のある岡本隆司先生の『中国の論理』。

 

おすすめです。

 

⑴中国を理解の核心に儒教あり

 

「怪力乱心を語らず」

 

儒教には、およそ超越的なところがない。

 

極端にはしらない、中庸が最大の徳目である。

 

儒教は中庸を尊び、神秘化は論外。

 

なるほどなと思ったの、岡本先生の以下の記述。

 

合理的なのがあたりまえであるから、それ以上の合理主義が育たない。現実の追求は一定の程度までくれば、常識的に教義に還元できるから、その理論で納得できれば、それ以上の好奇心・探究心がわかない。つきつめた分析も放棄してしまう。(p9)

 

これは大事な指摘だと思う。

 

キリスト教文明との対比で考えると、わかりやすい。

 

聖書を読むといたることろに奇蹟に関する記述がある。

 

エスが水上を歩いたり、モーセが海を二つに割ったりと、奇蹟に関する記述にことかかない。

 

神による奇蹟は常にありうるものだ。

 

だから、

 

この現実に対する根本的なレベルでの疑いは常にある。

 

目に見える現実を素朴に信じることが少なくなる。

 

この現実は常に、「海が割れたり」、「死者が生き返ったり」する奇蹟に開かれているのだから。

 

いわくキリスト教文明の方が現実への根本レベルでの疑いを想起しやすいのだろう。

 

故に、突き詰めた合理的な思考が育ちやすい。

 

疑いを表面的なレベルで止めないで、根本的レベルの疑いへと突き進んでいくから。

 

岡本先生は以下のように続けている。

 

現実・常識に対する疑いが薄いので、それが逆に、常識的な教義に対する思い入れ、固執を激しくする。さらにはその教義じたいを、かえって変転たえない現実から遊離させてしまう。まさに逆説的な現象といってよい。

 

常識への懐疑が薄いので、逆に教義への固執が強くなる。

 

例えば、近代中国において、アヘン戦争やアロー号戦争でイギリスに破れた時も、すぐには近代化に踏み切らなかった。

 

儒教では、武力で勝っても優越を意味しないのだ。

 

文明の中心である「中華」と周辺である「夷」、「蛮」を分かつのは、

 

「礼」を知っていることであり、

 

「礼」とは、儒教の教義の実践するものに他ならない。

 

つまり、イギリスは「礼」を知らない「夷」、「蛮」にあたり、

 

まともに話をする対象ではないのである。

 

こんな具合だから、進んだ西洋の兵器、技術、組織力を取り入れるのにだいぶ時間がかかった。

 

故に近代化が遅れた。

 

対象的に、オリジナルの文明が比較的少ない日本はすぐに西洋式の近代化に対応できた。